王家の谷へ
Presented by さくら様
呼び声
・・・キャロル・・・キャロル・・・
――――聞こえる。胸が痛くなるほど、なつかしい声。
愛しげに、苦しげに、わたしを呼んでいる・・・。
キャロルは浅い眠りの底から、意識を取り戻した。
椰子の木がナイルからの風を受けて、ざわ、とそよいだ。
いつの間にか胸元まで伸びていた金色の髪が、風に踊って彼女の頬をなぶる。
目の前に広がるのは、見慣れたリード家のテラス。
陽を浴びてきらきらと輝くナイル。
いつもの風景・・・。
――――わたしだけが違う。わたしだけが変わってしまった。
キャロルは瞳を暗くして、そっとお腹を押さえた。
――――赤ちゃんが、ここにいる。
どうしてここにいるのか、わたしさえも知らない赤ちゃんが。
キャロルは膝掛けを握りしめて、唇を噛んだ。
失った記憶が、否応なく彼女を責める。
どこにいたの?
なにをしていたの?
―――――そして、誰を愛したの?
「風が出てきた。中へ入れ。キャロル。」
掛けられた声に、はっ、としてキャロルは仮面を被る。
「そうね。兄さん。今、入るわ。」
寝椅子から身を起こしながら、無理に微笑んだ妹の儚げな微笑にライアンは顔を曇らせた。
「キャロル?大丈夫か?つらいなら、抱いていこうか?」
「ううん、大丈夫よ、兄さん。本当に。」
「・・・そうか。」
「夕食まで部屋で休むわ。」
「ああ、そうしろ。お母さんが後で薬を持って行くよ。」
「ええ。わかったわ。」
やはり微笑んで去っていく妹の後ろ姿を、ライアンは暗い眼差しで見送った。
どれほど必死に探しても手がかりすら掴めなかった妹の行方不明。
アラブの青年に助けられ、奇跡のように彼の手元に戻ってきた愛しい妹は、驚くほど変わっていた。
ただ無邪気で愛らしく、彼に甘えてばかりいた妹はそこにはいない。
彼が再会したのは、不思議なほどの気品を湛えた、美しい少女。
一点の曇りもなかった晴れやかな笑顔は、憂いがちなそれに変わり、生き生きした快活さは、物憂げな仕草に変わった。
そしてなにより決定的に違うのは、妹は・・・妊娠している。
その一事を思うと、ライアンは煮えくりかえる想いを抑えることが出来ない。
――――まだ、16だっ。
恋愛も、結婚も、一足飛びに飛び越えて、母になるというのか、キャロルが・・・!!
なんと、むごい。むごい運命を背負わせる・・・!!
『兄さん、信じて!わたし、わたし、忘れてしまっているけど、わたしは決して、兄さんやみんなの迷惑になるような人を愛してはいないと思うの・・・!』
悲痛に叫んだキャロルの声がライアンの耳に蘇る。
――――だれが、おまえのその言葉を信じられる?
世間知らずのおまえ。騙すことなど、簡単だろう。
暴行されたのかもしれない。か弱いおまえは男の力には敵わないから。
到底、信じることなど出来ない。
おまえを預けるに足る男を愛し、愛されて、その身に子が宿ったなどと。
おまえはそんなにも哀しげじゃないか。
その男は未だに名乗り出てもこないじゃないか・・・!
ライアンは苦しげに息を吐くと、どうすれば妹を救えるのかと、いつものようにその思案に戻っていった。
力強い腕が愛しげに彼女を抱き締めていた。
乳香の香りがする逞しい胸にそっと顔を埋めて微睡む。
・・・トクン、トクン。
彼の心臓の鼓動は彼女をとても安心させた。
彼の暖かい身体を感じながら眠るのは心地よかった。
もう、それなしに眠るのは寂しく感じてしまうほど、身体に馴染んでいる。
「キャロル。愛している。」
耳に心地よい、彼の囁き。
愛し合う時、彼は幾度もそう囁いてくれる。
いつも・・・いつも・・・。
・・・・キャロル、なぜ帰らぬ。なぜ、わたしの元を去ったのだ・・・。なぜ、わたしを苦しめる・・・!
耳元で叫ばれたような気がして、キャロルは飛び起きた。
ドクドクとうるさい心臓に手を当て、肩で息を繰り返す。
知らぬ間に溢れた涙がぽたぽたと膝に落ちた。
「・・・なぜ。」
呆然と彼女は呟いた。
――――なぜ、こんな夢を見るの?
記憶は少しも戻らないのに、夢の中の人が誰かもわからないのに、切なさだけがこんなにも重い。
愛しさと苦しさと哀しみが、渦を巻いて奔流となる。
なにもわからない。
ただ、苦しくて苦しくて苦しくて。
・・・・あそこにはいられなかった・・・。
・・・あそこ?
・・・どこのことだというのだろう・・?
キャロルはそっとベッドを降りて窓辺に寄った。
皓々と輝く満月が見える。
静かに窓を開けると、ナイルの水の匂いがした。
なぜだか、胸が苦しくなるほど懐かしい匂いだった・・・。
Fin
王家の谷へ