王家の谷へ

Presented by さくら様


月に祈る



――――渺々と風が吹く。ティムナ渓谷。
満月は中天に懸かろうとしていた。

夜空を歩く銀の太陽にして光の主人、月の神コンスよ。
我が願いを聞き届け給え。
我が願うはただ一つ・・・。

「メンフィスさま。」
己を呼ぶ声にメンフィスは振り返った。
「全ての準備、整いましてございます。」
ミヌーエ将軍の真摯な眼差しがメンフィスに向けられている。
「・・・わかった。」
組んだ腕組みを外さぬまま、メンフィスは言った。
ミヌーエに向けられた黒曜石の瞳は底に何かを沈めたまま、ただ静かだった。

――――これから決戦に望む者の眼ではない。

ミヌーエは胸の裡で呟いた。
キリキリと危ういほどに神経を張りつめて、秀麗な顔にファラオとしての仮面を被る。
王がこんな顔を見せるのは、決まってそばに最愛の少女の存在が失われた時―――。
勇猛で知られたエジプト王が、戦を前にこんな眼差しを向けるなどいったい誰が思うものか。

―――――変わられたこの方は。これほど人を変えるものなのか。恋というものは・・・。

行方知れずの最愛の王妃。
王に不信をもって、自らナイルに身をまかせた女神の娘。

メンフィスはミヌーエから視線を外すと、また月を見上げた。
吹き抜ける風が、彼の長い黒髪を靡かせてゆく。
月明かりに静かに佇む王はこの上なく凛々しく、孤高に見えた。

――――お帰り下さい。ナイルの王妃。
王はもはや、あなたなしでは生きてはゆけぬ。
息をせねば生きられぬように、食せねば生きられぬように。
あなたなしでは王は生きてはゆけぬのです。
王の母なる、運命の女神ハトホルよ。神秘なる氾濫の神ハピよ。
我が願いを聞き届けた給え・・・。

そこまで思って、ミヌーエは自嘲した。

―――――決戦を前に、わたしとしたことが・・・。

メンフィスはまだ月を見上げていた。
戦装束に身を包むその姿は月神コンスその人にも見える。

「・・・キャロルの声が聞こえぬ。」

誰に聞かせるふうでもなく、呟くようにメンフィスが言った。

「・・・わたしを呼べっ・・!」

苦しげな声が漏れる。
ミヌーエは沈黙をもってその場に侍していた。



「ミヌーエ。」
己を呼ぶ王の声に、その纏う空気が変わったことを将軍は知る。
立ち上る気迫。強い光を宿す瞳。犯しがたい威厳を纏う、神の子として。
「はっ。」
答えて将軍は傅いた。
「行くぞ。」
一言言って、愛馬に跨る。
「この戦、断じて負けぬ・・!」
毅然とした意志をその瞳に浮かべ、軍神と化した王が言った。
「御意。」
静かな闘志を込めて、将軍が応える。

―――――荒ぶる砂漠の神、嵐と暴風の領主たるセトよ。
その比類なき力を我に授け給え。
我、エジプトに仇なす者に、一片の情けもかけぬ!


――――月は中天に上った。

「よしっ!崖上に待機する我が軍に合図せよっ!!作戦通り松明に火を付けいっ!
我が銅山を奪還するぞっっ!!攻撃っ―――――!!!」
朗々と響く王の声に、数千を数える兵達が一糸乱れぬ動きで応える。
角に松明を括りつけられた夥しい数の牛たちが轟音を響かせて、谷底目指して駆け下りていった。

腹の底に響く地響き。
まるで火の雨が降るように、谷底に降り注ぐ炎。
バビロニア兵の驚嘆の叫びが地の底から湧き上がる。

メンフィスは黄金の鞘から、夜目にも煌めく白刃をすらりと抜きはなった。
「油断して眠り込んだバビロニア兵どもに目にものみせてやろうぞっ!!
攻撃っ――――――!!!」
急峻な崖をものともせず、巧みに手綱をさばくと、メンフィスは一気に馬身を踊らせた。
それに僅かも遅れることなく、ミヌーエ将軍と兵達が続く。

――――エジプトとバビロニアの雌雄を決する戦いが始まった。

不意を衝かれたバビロニアは明らかに浮き足立っていた。
たちまち辺りに血のにおいが立ちこめる。
いかにラガシュ王が檄を飛ばそうと、怒濤の勢いで攻め込むエジプト軍にバビロニア軍はじりじりと圧されていった。

メンフィスはミヌーエが前に出る暇も与えず、兵の先頭に立って剣を振るっていた。
その剣に屠られたバビロニア兵の返り血を浴びるのをものともせず、次々に斬りかかる兵を薙ぎ払うその姿はまさに鬼神。
サー・ラーたるその身に、セト神が降臨したかのようであった。

ふと。

その吹き上がる闘気が、いっきに凪いだ。
紅蓮の闘志を宿した瞳から、一切の戦意が消える。
メンフィスはなにかを探すように漆黒の視線を辺りに彷徨わした。
「悲鳴が・・。」
呆然と呟く王にミヌーエは信じられずに声を荒げた。
「ファラオ!ご油断あるなっ!!」
王に斬りかかるバビロニア兵を叩き斬って、王と背中を合わせる。
「このような時になにをお考えかっ!命がありませぬぞっ!」
メンフィスがはっとしたように闘気を戻した。
「いらぬ世話ぞっ!ミヌーエッ!」
襲いかかるバビロニア兵を一閃して、メンフィスはミヌーエから離れた。
だがもうミヌーエは、メンフィスから一瞬たりとも目が離せなかった。
2度と再びあの状態に陥って、王の命がある保証はどこにもないのだ。
勝ちつつある戦の中にあって、ミヌーエは暗澹たる思いだった・・・。



―――――あの決戦の夜から一夜が明け、また夜が来た。
覆い被さる雲に、明るいはずの月が隠された、アルバの谷。
水の匂いが濃い川の畔に、エジプト軍の夥しい天幕が張られる。
バビロニア軍撤退の報に、陣の殺気はしばし凪いでいた。

「あのような戦場で、なにをお考えであられたか。」
物静かな将軍が厳しい眼差しを王に向けていた。
「・・・キャロルの声が聞こえた。」
そんな眼差しなどいささかも意に介した様子もなく、物思わし気な瞳で虚空を睨んだまま、メンフィスが答える。

ミヌーエは意表を衝かれた。
だが納得がいく。
一瞬の隙が命を左右するあの戦場で、王を棒立ちにさせるもの。
それは王が己の命以上に愛する王妃のこと以外にありえない。
だからといって、到底看過出来ることでありはしないが・・・。

「王妃さまの声が?」

だが、そんなことはありえない。
傍にいたミヌーエにはなにも聞こえなかった。
あの場に王妃がいたはずもない。
だが、これまでにも離ればなれになった王妃の声が王に届いたことは何度もあった。
将軍はそれを知っていた。
それがただの思い込みなのか、神の御技ゆえなのか、それとも強すぎる王の想い故なのかは、確かめる術もなかったが・・・。

「その後も、たびたび聞こえた。キャロルの声が。わたしに助けを求めていた。・・・姿は、見えなかったが。一度は槍を放った。何も見えぬままに。・・・手応えが、あった・・・。」
最後は呟くように言って、メンフィスはじっと己の手を見つめた。
「・・・なんとも不思議なお話でございますな。王妃さまは女神の御娘。そのようなこともあるのでしょうか・・・。」
メンフィスは見つめていた手をぎゅっと握り、強く目を閉じた。
「・・・キャロルッ・・・!!」
まるでその名を呼ばねば、息も出来ぬと言いたげに苦しく絞り出すような声だった。

―――――王妃さま。
剣の前でなら、わたしはこの身でこの剣でいかようにもファラオをお守りいたしましょう。
だがあなたの不在に慟哭する王の魂を救う術をわたしはいささかも持ちませぬ。
あなたを想ってこれほどまでに苦しむ王を、あなたはご存じなかったのか。
ご存じであれば、貴きその身をナイルに預けることなど、思いつくはずもなかったものを・・・。

「・・・王妃さまのお声が聞こえるのならば、逆もまた真なり。我らの声も王妃さまに届けられるのやもしれませぬ。」
ミヌーエの言葉にメンフィスは固く閉じた目を開けて、底知れぬ闇色の眼を将軍に向けた。
「ファラオのお声はもちろんのこと、及ばずながらこのミヌーエも、一日も早い王妃さまのご帰還をお祈り申し上げましょう。」
「ミヌーエ・・・。」
「それほどにしかお役に立てぬ不調法者めにございますれば・・・。」
幼い頃より己に仕え、片時も側を離れず己を守る兄の如き忠臣を、メンフィスは凪いだ目で見つめた。
「祈ってくれ。エジプトに坐す幾千の神々に。わたしが日々祈り続けているように。」
「・・・はっ。」
応えてミヌーエは、深く深く礼をとった。
メンフィスが身を翻す気配がする。
視線を上げたミヌーエは、王が天幕に引き返す後ろ姿を見送った。

―――――ゆっくりと、王の魂が弱っていく。
後どれほど、王の心は保つだろう。
最愛の者が己の傍より失われた慟哭に、あの方はあとどのくらい耐えられようか。
あの方が狂うてしまうまでに、それほど時間はかかるまい・・・。

ミヌーエは大きく息をついて、僅かに顔を覗かせた月を見上げた。

――――癒しの力に満ちたる満月のコンスよ。
その光を持て、ファラオの魂を癒し給え。
失われし王妃の白き腕に未だ抱き取られたまま、身動きのならぬあの魂を。
気狂いするほどに妻を恋しがるあの魂を。

ミヌーエは視線を戻し、王の天幕を見遣った。
王妃の無事を祈ると言ったその神に、計らずも最初に祈ったのはかの王の魂の救済であったことに、どこまでも己にとって最上なのはかの王であったと自嘲の笑みを掃きながら・・・。

そしてゆっくりと瞳を閉じ、次に開けた時には彼もまた、勇猛なるエジプト軍の将軍に戻っていた。



王妃帰還の報が彼らに届けられるまで、あと数日を残すのみ。
だが王妃を愛して止まないファラオの腕に愛しい少女が戻るまでには、あと幾ばくかの時と哀しみを越えねばならなかった。



Fin





photograph by あね様

 王家の谷へ