愛の奥宮殿へ


  『ある従者の陰謀』

  Presented by さくら様



『――――姫君には本日もご機嫌麗しく、いつものようにファラオの目を盗んで町歩きなどを楽しまれ、姫君いうところの“見聞”などを広められたよし・・・。』

――――先日、書いたな。

ルカは眉を曇らせ、ざっと砂地に書いた文字を消した。
王子に定期的に書き送る密書――――。
それこそが、ヒッタイトの間者たる己のもっとも重要な任務の一つだというのに、ルカはこのところ思うような密書を綴ることが出来ずにこうして何度も下書きを重ねることが多くなった。
いかんせん、昨今のエジプト王宮には目新しい動きがなく、これぞ!という報告すべき懸案が乏しいのに加えて、キャロルの近況を綴ろうと思えば、お忍びとファラオとの仲睦まじき姿に終始するのだ。
どれもこれも、イズミル王子が喜ぶ報告とは言い難い。
かの王子に心酔するルカとしては、なるたけ王子に益になる情報、喜ばれる内容を綴りたいのはやまやまなのだが、いかんせん、この状況では・・・。
ルカは溜息をひとつつくと、今一度、手に持った小枝でさらさらと砂地に文字を書き連ねた。

『――――姫君には昨今、お手に入れられたフェネックの仔を殊の外可愛がられ、ファラオすらも嫉妬なされるほどの入れ込みようにて・・・。』

「・・・・・・。」
またしてもルカは、砂地の文字をざっと消す。

仮にも大国ヒッタイトの王子に届ける重要な密書の中身がたかだか子狐の噂話では、ルカの間者としてのプライドが許さない。
彼は気を取り直して、今一度小枝を動かした。

『――――姫君御自らの看護を受けるヒューリアの回復は誠に早く、王宮に参った折りにはとても助からぬだろうと思われた身体が、今は寝台に身を起こせるまでになり、今日などは姫君に、「夜中にわたしの部屋でファラオといちゃつくのはやめてくれ。」などと、誠に無礼な物言いを・・・。』

「・・・・・!」
ルカは、乱暴に文字を掻き消した。

仮にもナイルの姫は王子と婚儀まで挙げた間柄。
いくら本人が覚えておらずとも、王子がすでに我が妃と思い定めている方が他の男と睦まじげにしている様子など、意地でも書き綴るまいと思うのにどうしても文面にファラオが押し入ってくる。

「まったく。どこまでも不遜なる男よ。」
「誰がなんだって?」
思わず呟いた腹立ち紛れの言葉に、思いがけず返事が返ってルカはギョッとして振り返った。
きょとん、とした顔のウナスがこちらを見ている。
「―――なんだ。ウナスか。」
「なんだはないだろう?なにしてんだよ。こんなところで。」
気楽に言って無造作に隣に腰を下ろす同僚を、ルカはうるさげな視線で牽制したが、もちろんそんな細かい所作に気がつくようなウナスではない。
「・・・なんでもない。それよりなにか用か?」
「うん。あのさあ・・・。」
幾分、棘を含んだ声音で尋ねたがそんなことは些かも気にせず、ウナスは話し出した。
「おまえ、夜番やる気ない?」
「夜番?」
ウナスの言う夜番とは、ファラオの部屋の大扉の前で一晩中寝ずの番をする近衛のことだ。
腕が立ち、信頼の置ける近衛達が交代でその任に当たることになっている。
ウナスはその隊長の一人だった。
「ファラオの部屋の夜番はおまえたちメンフィスさま付きの仕事じゃないか。なんでオレが・・・。」
「だからさ。キャロルさまだってファラオの部屋でお休みになるんだから、キャロルさま付きのおまえが夜番やったっていいだろ?」
「!」
それはそうなのだが、真の主君たるイズミル王子のことを思えば、恋敵の男が堂々と姫と閨を共にする部屋を守るなど屈辱以外のなにものでもない。
ルカは人知れず爪が食い込むほど、拳を握りしめた。
「隊長の一人が怪我しちゃってさ。手が足りないんだ。しばらくの間でいいから手伝えよ。」
「いやだね。姫君のお供は重労働なんだぞ。夜まで駆り出されちゃ身が保たない。」
「体力あるくせに。」
「本来の仕事以外で使う気はない。」
「おまえってつれないよな。おれがこんなに頼んでるのに。」
ウナスはわざとらしく溜息をついた。
「つれなくて結構。甘えるなよ。ウナス。」
そういうと話は済んだとばかりに、ルカは立ち上がった。
「話がそれだけなら行くぞ。そろそろ姫君が午睡を終えて部屋に戻られる。」
「・・・ああ。キャロルさまなら午後もメンフィスさまとご一緒だよ。謁見がひとつ中止になって時間が空いたと仰せだったから、もちろんキャロルさまと過ごされるだろ。」
ウナスの言葉に歩き出したルカの足がピタリと止まる。

――――王子が、傷ついた身で尚も切なく姫君を想われているというのにあの男は・・・!

ルカの理不尽な怒りはついに怒髪天を衝いた。
「・・・夜番、今夜だけなら引き受けてやってもいいぞ。」
「ほんとか!?」
「・・・ああ、姫君のご用がないならこれから少し仮眠をとって夜番引き受けてやるよ。」
「助かるよ!おれ、二晩続けての夜番になるところだったんだ。」
低い、底に怒りを滲ませたルカの声音に気づくことなくウナスは素直に喜んだ。

ウナスと別れたルカは、本来の顔に戻って何事かを画策し始める。
柔らかな物腰の下に隠された、有能な間者としての腕前を遺憾なく発揮して―――。



「失礼致します、ファラオ。姫君。」
夕暮れ迫るファラオの居間に、ルカは畏まって傅いた。
「急遽ではございますが、わたくしが今宵の夜番の長を勤めさせていただきます。」
早めの夕餉をメンフィスと共に取っていたキャロルは軽く目を見張り、お気に入りの近従に言葉をかける。
「まあ、ルカが?いったいどうしたの?」
「はい。なんでも夜番の隊長の一人が怪我をしたとか。人手が足りぬとかでこのような仕儀に相成りました。」
「まあ、そうなの。でも、ルカなら安心だわ。よろしくね。」
「はっ。」
「近頃は物騒な事件が続いておる。ルカ、心して勤めよ。」
「・・・はっ。」
愛らしい微笑みを浮かべるキャロルには優しげな微笑を返し、一転、ファラオには厳しい顔で畏まると、ルカはつと、ファラオに視線を合わせた。
「メンフィスさま。実は既に先般、怪しげなる男を一人捕らえました。」
「なにっ!?もう賊が出たと申すのかっ!?」
「・・・いえ、賊と申せるかどうか、定かではござりませぬが・・・。」
「なにっ?ええいっ。はっきり申さぬかっ!」
「・・・はっ。」
ルカは畏まって答えると、懐からおもむろに一巻きのパピルスを取り出した。
「その男が所持いたしておりました。なんとしてもメンフィスさまにお届けしたいと、その一心でここまで入り込んだと申しておるのですが・・・。」
「わたしに、だと?」
メンフィスは怪訝な顔でパピルスを受け取ると、ざっと目を通し、傍目にも判るほど瞬時にひるむ。
「な、なんだこれはっ!?」
「・・・ここでご説明してもよろしゅうございますか?」
二人の男の視線が自分に集まるのを感じて、キャロルはきょとんと目をしばたたいた。
「い、いや、向こうで聞く。キャロルッ、そなたはここで待っておれっ!」
「なあに?メンフィス、わたしには聞かせられないこと?」
「そうではないっ。いらぬ気を回すなっ!」
どうにも怪しい素振りで、そそくさとルカをせき立てて隣室に消えていったメンフィスの背中をしばし睨んでいたキャロルだったが、ふと悪戯っぽい微笑を浮かべて彼らの後を追った。

「・・・トゥエリスがいまさら、なんの用だっ!?」
「なんでもテーベを離れることになったから、最後に一度ご挨拶申し上げたいのだとか・・・。」
「ええいっ!そのようなことで、いちいち文を寄こすなど・・・!」
「娼婦とは申せ、メンフィスさまに寄せる想いは一途であったそうにございます。」
「ふん。何年も前に、数度通った客というだけではないかっ。」
「・・・はあ。そのあたりはわたくしにはなんとも・・・。」

カタン。

小さな音に、はっとしてメンフィスが振り返ると、最愛の少女がわなわなと震えながら戸口に立ちつくしていた。
「キャロルッ!そなた・・・。」
「・・・メンフィス、そんなことしてたの?しょ、娼婦だなんて、何度も通ったなんて、そんなっ、フ、フケツだわっ!」
「・・・聞いておったのか。そなたと出会う前のことぞ。わたしもすっかり忘れていた昔の話だ。」
「そんなの関係ないっ!愛してもいないのにそんなことするなんて、女の人をお金で買うなんて絶対許せないっ!」
「キャロルッ!」
メンフィスは苛立たしげに、キャロルの肩を掴もうとしたが、彼女は乱暴にその手を振り払った。
「触らないでっ!フケツよっ!」
「なにっ!?」
目論見どおりのキャロルの反応に、ルカは人知れずほくそ笑む。
「・・・姫君、男というものはそういうこともあるものなのでございます。」
素知らぬ顔でファラオを庇う真似をしてみせるルカに、キャロルは、きっと眼差しを向ける。
「じゃあ、ルカもっ!?ルカもそんなことをしているというのっ!?」
この言葉をこそ、ルカは待っていた。
「いえ。わたくしは。心の伴わぬ行為はむなしいだけでございますれば。」
さらりと極上の笑みを浮かべるルカに、キャロルは我が意を得たりとばかりに頷くと、メンフィスにきつい眼差しを向ける。
「そうよっ。男も女も関係ないわ。わたし、やっぱり許せないっ!そんなメンフィスは嫌いよっ!」
わっと泣き出してキャロルは身を翻すと、パタパタと走り去ってしまった。
「ま、待ていっ!キャロルッ!」
「・・・しばしお待ちを。メンフィスさま。」
慌てて後を追おうとしたメンフィスを、ルカはすかさず呼び止める。
「ええいっ。なんだと申すっ。」
メンフィスはギラつく瞳でルカを睨んだが、彼はそんなことでは些かも動じない。
「ここでファラオが後を追われては逆効果。わたくしが姫君を宥めてまいりましょう。」
「なんだとっ!?元はと言えばそなたが、あのようなパピルスを持って参ったせいぞっ!おまけに火に油を注ぐようなことまで申しおってっ!」
「これはお人聞きの悪い。わたくしは職務に忠実であろうと勤めただけでございます。」
何食わぬ顔で恭しく頭を垂れるルカに、メンフィスはふん、と鼻を鳴らした。
「・・・確かに今のキャロルは興奮状態。わたしが行くよりもそなたにまかせたほうがよいかもしれぬ。よいかっ、即座にキャロルの機嫌を取り結び、わたしの前に連れて参れっ!」
メンフィスは忌々しげにルカを睨め付けるとぞんざいに言い放った。
「・・・はっ。全力で相務めまする。」
どこまでも傲岸な男よ、と心の裡で蔑しながら、そんな気は微塵もないことをおくびにも出さず、ルカは神妙に畏まった。


「・・・姫君。大丈夫でございますか?」
自室に駆け戻り、寝台に泣き伏すキャロルにルカはそっと声をかけた。
「ルカ・・。」
泣き濡れた蒼い眼差しを彼に向けるキャロルはひどく儚げで乙女のように清純そうに見える。
このキャロルがもっとも忌み嫌うメンフィスの過去の愚行を洗い出し、このタイミングで突きつけてやったのは、我ながら上出来だったとルカは内心得意だった。
「お、男の人って、好きでもない人とそんなことが出来るの?メ、メンフィスはどういうつもりでそんなことをしたのかしらっ・・?」
メンフィスの行いは男としては普通の行為で、特に非難の対象になるとも思わなかったが、潔癖な少女がそれを許せない気持ちも判る。
そしてそれこそが、ルカのつけいる隙であった。
「・・・まことに憂うべき事態でございます。メンフィスさまにそのような過去があったとはわたくしも驚きました。」
わざと苦渋の表情を作り、溜息をついてみせるルカにキャロルは手もなく騙されて、わっと泣き伏した。
「姫君、嘆かれますな。・・・どうでしょう。しばらくファラオと寝室を別にされては?少し距離を置かれれば、ファラオも思うところがございましょう。」
ズバリ核心を口にしたルカに、キャロルは勢い込んで頷いた。
「もちろんだわっ。こんな気持ちのまま、メンフィスと一緒に寝られるわけないじゃないのっ。」
「ではそのようにファラオにご伝言いたしましょう。」
してやったり、と内心勝利の勝ち鬨を上げながら畏まってキャロルの前を辞し、メンフィスの元に嬉々として伝言に走ったルカだったが、エジプトの若きファラオは彼の予想を遙かに超えて、過去の愚行を後ろめたく思うほど殊勝な気性は持ち合わせていなかった。

「なにいっ!?キャロルがわたしとの共寝を辞すとっ!?そのようなことをこのわたしが許すと思うのかっ!」
メンフィスは獣のように咆吼すると、跪いたままあっけにとられるルカを残し、王妃の間に乱入して激しく抵抗するキャロルを組み伏せ、慌てふためく侍女たちを払った。

王妃の間から漏れ聞こえるキャロルの悲鳴、激しく言い争う声。
だがやがてそれも静まり、夜の帳が奥宮殿を深く包む頃には、王の部屋よりは華奢な造りのその扉越しに、王妃の甘い悲鳴が切れ切れに王妃の部屋の大扉を守るルカの耳に届くようになった。

――――なんとしたことだ!メンフィスの性格を読み誤るとはっ・・・!
このわたしが、これではまるで道化ではないかっ!

唇を噛みしめ、目も眩むような屈辱に俯きながら、ルカは悪夢の如き夜を明かした。


『・・・姫君にはファラオの無体に涙されることも多く、まことメンフィス王は傲岸不遜なる人物。この上は一日も早く、姫君を連れてヒッタイトに帰還出来る日を待ち望むばかりにて・・・。』

楽しげなキャロルの笑い声と重なるように響く低い声。
すっかり仲直りして、共に東屋で過ごす二人を尻目にしたためる密書に溜息をつきながら、ルカは手早くハトの足に紙片を結びつけて空へと放った。

――――・・・王子。

遙かヒッタイトに向けて、ルカの眼差しが虚空を追った。


Fin