愛の奥宮殿へ
『Enemy』
Presented by さくら様
キィー! ケンケンケン!!
無礼にも自分に向かって吠え立てるちっぽけなフェネックに、メンフィスは鋭い一瞥を向けた。
「なんだ、おまえは。無礼な。」
ほとんど同時に、腕に抱き上げたばかりの愛妃がその眠りを破られ、慌てて身を起こす。
「・・・えっ。ど、どうしたの!?子狐っ!?」
子狐のもとに駆け戻る妃をおもしろくなさそうに見遣りながらメンフィスは腕を組む。
「まあ、どうしたの?泣かないで。大丈夫、大丈夫。わたしがいるわ。」
優しく己の身体を撫でながら囁く声に安堵したのか、子狐は身体を丸め直し鳴き止んだ。
「メンフィスったら、子狐を脅かしたのねっ。」
「なに?わたしはなにもしてはおらぬぞ。キャロル。」
子狐を庇うように自分に文句を言うキャロルが、メンフィスはますます気に入らない。
「やっと寝たところだったのよ、・・・もう。」
「ふん。わたしはなにもしておらぬと申すに。」
鼻を鳴らしながらメンフィスは妃に歩み寄るとその腕を掴んだ。
「もうよいであろう。行くぞ。」
キャロルは困ったように上目使いでメンフィスを見上げると、彼には信じられない言葉を口走った。
「あの・・・今日は一人で寝てくれない?わたし、この子に付いていてやりたいの。」
「・・・なに?」
メンフィスは一瞬、言われた言葉の意味がわからなかった。
だがそれが、己よりも子狐と共寝したいという意味だと気づくと、妃を掴んだ腕に思わず力が入る。
「きゃ、い、痛いわ、メンフィス。」
顔を顰めるキャロルに構わずその身を引き寄せて、メンフィスは低い声で問うた。
「なんと申した?もう一度、申してみよ。」
「・・・だって、わたしが付いていないとこの子、鳴くのよ。メンフィスは一人で寝たってまさか泣くことはないでしょう・・・?」
――――泣けと申すのか?このわたしに?
このエジプトのファラオたるわたしが妃を恋しがって泣かぬから、子狐と共寝する方を選ぶと?
メンフィスの中でなにかがぶち切れた。
この瞬間、彼の中では小さなフェネックの子供は、倒すべき敵として認識されたのだった。
「テティ!テティはおらぬかっ!」
「きゃっ、メ、メンフィス?」
突然、ファラオに大音声で呼びつけられた王妃付きの侍女は転がるように部屋に駆け込んで来た。
「は、はいっ、ファラオ。お呼びでございますか?」
「テティ、そのほう、今晩、責任を持ってそのフェネックの面倒を見よ。よいか、決して鳴かせるなっ。」
「・・・は?フェネック、でございますか?」
「よいな、しかと申しつけたぞ。」
「メンフィス?いったい?・・・きゃあっ。」
言うべきことを言い置くと、メンフィスはさっさと妃を抱き上げて寝所に引き上げた。
「ひどいわ、メンフィスッ。もうっ、乱暴なんだからっ。」
「ふん。己の立場を忘れて王とフェネックを天秤に掛ける王妃などに、なにも言う資格はない。」
放り投げるようにして降ろされた豪奢なファラオの寝台の上で、キャロルは文句を言ったが怒りに燃える王が取り合うはずもない。
「天秤なんて・・・。だってあんなに小さくて傷ついた子狐よ。あなたと比べられるはずもないでしょう?」
「子狐だろうが獅子だろうが、わたしからそなたを奪おうとするものはすべて我が敵ぞ。」
大真面目にそう言うメンフィスを見上げて、キャロルは一瞬、きょとん、とした顔をしたがやがてクスクスと笑い出した。
「やだ。メンフィス。まさか妬いてるわけじゃあないでしょう?」
メンフィスはますますおもしろくない。
「・・・妬く?馬鹿な。わたしのものであるそなたが、わたし以外のものに心捕らわれるのが許せぬだけよ。」
「・・・それを妬くっていうんじゃあ・・・きゃあっ。」
いきなり王に押し倒され、その猛禽のような眼差しを至近距離で受け止めたキャロルは、こくん、と息を飲んだ。
「メ、メンフィス?・・・や、やだ、怒ってる?」
「・・・怒ってなどおらぬ・・。」
とてもそうは見えない王の眼差しに、キャロルは身の危険を感じる。
「メンフィス、お、落ちつきましょ。ね?落ち着いて。お願い。」
「・・・わたしは落ち着いている。」
低い声で言いながら、メンフィスはゆっくりと右手をキャロルの胸元にかけ、夜着をいっきに引き裂いた。
「きゃあああっ。やめてっ。」
「止める?何を止めろと?そなたは王妃として、そなたが為すべきことを為すがよい。」
一向に緩まぬその眼差しの鋭さに、キャロルは吹きすさぶ嵐に身を伏せて耐える以外、己に為す術は残されていないことを知った。
「ファラオ。フェネックの子は足の添え木も外され、ナイルの姫さまには、傷が治ったら砂漠に返すべきか、女官長殿にご相談されておいででした。」
「うむ。して、ナフテラはなんと?」
「小さすぎて砂漠では生きていけぬであろうと、進言されておられました。」
――――ナフテラめ、余計なことを。
・・・ふむ。だがそれもよいな。あの目障りな子狐めを熱砂の砂漠にうち捨てるか。
メンフィスは黒曜石の瞳に暗い嗤いを滲ませて良からぬ謀略を巡らせた。
――――キャロルを言いくるめるなど簡単なこと。
砂漠に生きる者は砂漠に戻すがよい、と因果を含めて言い渡そう。
あとはあの子狐が生きようが死のうが知ったことではない。
要はキャロルのそばにあやつがおらねばそれでよいのだ。
「あの子狐は爪も歯もまだ立てぬか。」
「はっ。ナイルの姫さまに殊の外懐き、そのような素振りは一向に・・・。」
「あいわかった。そなたは引き続き、あやつを見張れ。」
「はっ。」
傅いたままの王妃付きの近衛兵は、深く一礼してファラオの御前を辞した。
メンフィスが王妃の可愛がるフェネックの子をはっきりと己の敵と認めたあの日の翌日。
ファラオは王妃に仕える近衛達を集めて極秘にフェネックの“暗殺”を命じた。
「よいか。キャロルの元にいるあのフェネックを見張れ。そして、あの子狐がキャロルに毛筋ほどにも怪我を負わせたら、かまわぬ、あやつを切り捨てよ。」
ファラオの前に傅く兵達は、一瞬顔を見合わせたが、厳しい顔を崩さぬ王に、諾としてその厳命に従うしかなかった。
かくて、幼気な子狐はその一挙手一投足を鍛え抜かれた屈強な男達に見張られることとなったのである。
「キャロル。」
その晩、王妃の部屋を訪れた王を、キャロルは白い人差し指を愛らしい唇の前に立てて出迎えた。
「今眠ったところなの。」
膝の上に身を丸めて眠る子狐を指差し、王に静かにしろ、と暗に諭す。
――――こやつ、やはり生かしてはおかぬ。
暗い決意を新たにする王に全く気づく素振りもなく、キャロルは慌てて駆け寄ってきたテティに子狐を渡すと、メンフィスににっこりと笑いかけた。
「おかえりなさい。メンフィス。」
あの日以降、キャロルや侍女たちはもちろん、当のフェネックさえもメンフィスに遠慮しているふしがある。
身をもって思い知らされたキャロルやファラオの勘気を受けたくない侍女たちが、ペットの子狐のことで王に遠慮するのはわかるが、当の子狐すら、己を見据える剣呑な眼差しになにやら身の危険を感じたようだ。
王の前でキャロルから引き離されようとも、もう王に吠え立てることはなかった。
メンフィスの放つ肉食獣の如き殺気は、人間のみならず獣さえ怖じ気づかせるものらしい。
「・・・あのフェネック、ずいぶんと元気になったようではないか。まるまるとうまそうに肥太りおって。」
「やだ、メンフィス。うまそうだなんて。」
コロコロと王妃は愉しげに笑ったが、王は半ば本気である。
「そろそろ砂漠へ帰してやったほうがよいのではないか?野にあるものを捕らえておくなど、あまり感心せぬな。」
「まあ・・。メンフィスがそんなことを言うなんて意外だわ。」
心底意外そうに、蒼い目を見開くキャロルにメンフィスは苦笑した。
確かに傍若無人に振る舞うことが常の己にとって、他者の事情を思い遣るなど慣れぬこと。
だがこの場合、いくらそうは見えずともすべては己のためなので、彼の理には叶っている。
「そうか?そなた、そうは思わぬのか?」
素知らぬ顔で尋ねると、キャロルは俯いた。
「それは・・・。それはそうは思うわよ。でもまだ小さくって砂漠では生きられないってみんなが言うし、いつも傍に置いて可愛がっているのに手放すのはやっぱり寂しい・・・。」
――――だから、砂漠にうち捨てるのよ。
胸の裡で暗く呟くメンフィスの声が、無論キャロルに聞こえるはずもない。
彼が片時も傍を離したくないと願う最愛の妃の傍で、日がな一日、可愛がられて過ごす子狐が憎くならない訳がない。
贅を極めた王宮でその国の王妃に可愛がられて過ごす幸運な子狐が、王妃を溺愛する王によって命を狙われ、危ういバランスの上に生きながらえていることなど、いったい誰が想像するか・・・。
「・・・まあ、可愛がるのもほどほどにしておくのだな。あのフェネックの為にこのわたしを蔑ろにするなど、2度は許さぬ。」
「わ、わかってるわよ。メンフィスったら。」
危険な光を孕んでこちらを見据える漆黒の瞳に、思わず、ごくり、と息を飲んでキャロルは答えた。
「・・・ふん。覚えておけ。そなたをわたしから奪う者はすべて我が敵。倒さずにはおかぬ・・。」
華奢な妃の顎を捕らえて、その唇に囁くと王は深い口づけを与えた。
――――王妃手飼いの子狐が行方知れず――――
その第一報に触れた時、王は深い満足を覚えた。
これでもう、あの忌々しい子狐を見ることも無くなると思えば、毒蛇事件などでくさくさした気分も晴れようというものだ。
だが、自分の腕の中で萎れた花のように泣き崩れる愛妃を見ては、そうも言ってはいられなくなった。
気が付けば、子狐が落ちたと思われるナイル川一帯を捜索せよ、と大号令をかける己がいた。
密かに“殺せ”とまで命じたフェネックが見つかってもそれはそれで困るというのに。
――――結局、わたしは妃には敵わぬ。
キャロルを泣かせてまで為したいと思うことなど、今のわたしにはなにもない。
子狐一匹を求めて、ナイル川を捜索する人々の群れを宮殿のバルコニーから見下ろしながら、メンフィスは自嘲した。
――――見つかるかどうかなど、わからぬ。
だが、妃の笑顔が得られるなら、草の根分けてもあの子狐を探し出したいと思う。
そして、妃の傍に邪魔なあやつを置いておきたくないのもまた真実。
・・・ふん。我ながら矛盾しておることよ。
王の傍らに控えるミヌーエ将軍が怪訝そうに、苦い笑みを浮かべた王の横顔を見つめていた。
――――かくて、エジプト一(いち)の幸運と不運を二つながらに背負った子狐の、大冒険が始まった・・・。
Fin
愛の奥宮殿へ