愛の奥宮殿へ
『献 身』
Presented by さくら様
メンフィスはしなやかな肢体を長々と寝台に預けていた。
少し面やつれした表情が、彼の美貌に凄みを添えている。
寝乱れた長い黒髪を無造作に払って、彼は目の前の侍医を不機嫌そうな眼差しで見遣った。
「毒の危機は去りました。さすがは我がファラオ。これほど早く完治されるとは・・・。」
侍医の言葉に、王の寝台を取り巻いていた重臣たちから、おおっ、と低い歓声が漏れる。
王が正体不明の毒酒に倒れてから5日目――――。
一時は命すら危ぶまれた毒から、侍医ネゼクが10日と見立てた療養期間を半分残して、若き王は完治した。
「なんと!さすがは我がファラオじゃ!」
「卑怯なる者の計りし毒なぞ、なにするものぞ!」
「ナイルの姫様がいかばかりにお喜びになられようか。」
「左様。昼夜を分かたぬご献身ぶりでございましたからなあ。」
不用意に漏らされた大臣の言葉に腹立たしげな一瞥をくれると、メンフィスはおもむろに口を開いた。
「治ってはおらぬ。」
「・・・はっ?」
ネゼクは王の言葉に思わず言葉を返した。
「メンフィスさま、どこかお苦しいところがおありでしょうか?」
もしや自分の見立てに間違いがあったかと、ネゼクは慌てた。
「大事無い。・・・が、わたしは治ってはおらぬ。」
「そ、それはどういう・・・?」
「食事は普通に戻せ。運動も許可せよ。・・・だが、わたしはまだ寝台から動かぬぞ。政務もここで執る。そなたの見立てた10日目まで、わたしは病人だ。」
「メ、メンフィスさま?」
訳がわからず、ネゼクは王を見つめた。
「メンフィスさま。それはもしや、キャロルさまに対してそういうことにしておけ、との仰せでございますか?」
我が意を得たり、とミヌーエ将軍が言葉を挟む。
「うむ。」
「ナイルの王妃さま・・?? ですがあれほどのご献身ぶり。お話しせぬ訳には・・・。」
そこまで言ってネゼクは、王の真意に合点がいった。
「・・・そういうことでございますか。」
「あやつめ。6日後にはわたしを置いて、ミノアくんだりまで出向こうというのだ。・・・そのぐらいの趣旨返しはよかろう。」
悪戯な目を光らせる絶対権力者に、その場に居合わせた人々は有無を言わせぬ箝口令を敷かれる。
エジプトにおいて、彼は掟だ。
彼が病人といえば完治していても病人となる。
哀れ一途に夫を案じる純真な王妃は、当の本人に欺かれ、献身的な看護を続けることとなった・・・。
「おいしい?メンフィス。」
「うむ。」
キャロルは手ずから、一匙ずつ、よく煮込んだスープをメンフィスの口元に運んでいた。
ときどき、パンを小さくちぎってスープにつけては同じく口元に運んでいる。
手はなんともないはずのメンフィスだったが、一切動かそうとはしない。
幼子のように、キャロルが口元に運ぶものを食べるのだ。
口の端についたスープさえ、キャロルが白い指で拭い取るまでそのままにしておく。
「今日はいっぱい食べてくれたのね。うれしいわ。」
にっこり笑って、キャロルは空になった器を置くと侍女の差し出す薬湯を手にした。
そのまま、侍女たちに下がるように命じる。
「さあ、今度は薬湯よ。・・・苦いけど、がんばりましょうね。」
すっと表情を緊張させると、キャロルは薬湯を一口含む。
「!」
妃の驚いた顔。
それから、ちょっとうれしそうに蒼い眦に笑みを含んで、メンフィスの頭を抱えるようにして口移す。
「・・・苦くないわ!どうして?お薬が変わったのかしら?ねえ、メンフィス?」
「・・・苦い。」
ぶすっ、とメンフィスが言った。
「え?苦い?おかしいわ。わたしは苦くなかったんだけど・・・。毒が抜けきらないから、味覚も少しおかしくなってるのかしら??」
「知らぬ。とにかく苦い。このようなもの、一人ではとても飲めぬぞ。」
「そ、そう?メンフィスが苦い薬湯は口移しじゃなきゃ飲まないっていうから、今までそうしてきたけど、これなら大丈夫だと思ったのに・・・。」
「だめだ。このようなもの、そなたが飲ませるのでなければ飲まぬ。」
傲慢に言い放つメンフィスにそっと溜息をついて、キャロルは小さく笑った。
「わかったわ。甘えんぼの怒りんぼさん。やっと命が助かったのだもの。いくらでも我が儘を言ってちょうだい。」
「なに?わたしは王ぞ。王に対して無礼な物言いを致すな。」
この上なく甘えながら同時にメンフィスは尊大な態度を崩さない。
「はいはい。」
溜息混じりにそう言って、キャロルはもう一度薬湯を口に含み、メンフィスに口移した。
―――キャロルの柔らかな唇がそっと重なってくる。
遠慮がちな舌が差し入れられ、薬湯を移そうと小さく動いている。
メンフィスは喉を鳴らして薬湯を飲み込みながら、その舌に己のそれを絡めずにはおれなかった。
「!・・・んっ。」
キャロルはくぐもった声を上げ、反射的に唇を離そうとしたが、メンフィスはそれを許さない。
食事の時には一切動かされなかった逞しい腕が、華奢な身体に強く絡みついてくる。
キャロルの手から、薬湯の入った杯が落ちた。
「! 薬湯が・・。」
僅かに離された唇を動かし、メンフィスのそれに囁く。
「・・・もう、飲んだ。」
「あれじゃあ、足りないわ。」
「前に申したな。わたしの治療薬はそなただけだと・・・。では、そなたがその身体でわたしを癒せ・・・。」
言いながら、メンフィスはキャロルの身体をやすやすと己の寝台に引き上げてしまう。
「!メンフィス!あなた、まだ病人なのよ?」
「ネゼクがそろそろ体を動かせと申しておった。」
細い肩紐を外し、メンフィスは白い項に囁く。
「そ、そうなの?でも、こんなことして・・・。」
「我慢するほうが体に悪い。」
メンフィスは露わになった胸に手を伸ばす。
黒曜石の瞳には、もう欲情の色が隠しきれない。
「そういうものかしら・・・??」
「いずれにせよ、もう止められぬわ・・・。」
メンフィスはキャロルの小さな顎を捕らえると、貪るように口づけた。
しなやかな長身を折り曲げるようにして、キャロルの身体に溺れていく・・・。
「ねえ、ネゼク。メンフィスは本当にまだ治っていないの?」
翌朝、ファラオの診察のため参上した侍医に蒼い疑惑の眼差しが向けられた。
ネゼクは、うっ、と詰まり、窺うように尊大な王にちらり、と視線を流す。
「何を申す。ネゼクは我が国きっての名医。見立てを疑うな。そうだな、ネゼク。」
ぎろり、と黒曜石の瞳がネゼクを睨む。
有無を言わせぬその瞳が、黙っていろと、ネゼクに命じる。
その目に逆らえる者は、この国にはいない。
「・・・は。ファラオは若く頑健なお体なれど、なにせ毒は未知なるもの。未だどのような災いをなすか解りませぬ。ファラオの御脈は未だ正常に戻らず、毒が完全に去ったとは申せぬ状態にて・・・。」
しどろもどろに説明するネゼクに、キャロルの疑念はますます深まる。
「ふうん?でも、そんな人に運動を許可したり、こんな食事をさせるってどういうこと?」
メンフィスは朝から、うまそうに肉を頬張っていた。
相変わらず、己の手は使わず、一切の給仕はキャロルにさせている。
しかも昨夜のメンフィスは、完全に健常時のそれであった。
キャロルの疑惑に満ちた眼差しと、メンフィスの威圧的な眼差しに晒されて、ネゼクは身の置き所がない。
「〜〜〜〜〜。・・・・は。ファ、ファラオにおかれては毒に対抗するために、体力の増進を図るのがなにより肝要かと推察いたし、ご指示申し上げました。」
「・・・ほんと?」
「・・・誠にござりまするっ。」
ネゼクは、キャロルの目を見ないようにして、一気に言った。
「キャロル。いい加減にいたさぬか。ネゼクが困っておるわ。」
陰謀を企んだ張本人が涼しい顔で口を挟む。
「ネゼク診察いたせ。今日は少し頭が重い。」
ぺろりと朝餉をたいらげて顔色もまことに健やかな王は、しゃあしゃあと言った。
「メンフィス。そろそろ、薬湯は自分で飲めるのではない?
夕べはあんなに元気だったのだもの。もう一人でなんでも出来そうだわ。」
「・・・今日は身体が重い。毒がぶり返したのやもしれぬ。はやく薬湯を飲まさぬか。」
「・・・・・。」
夕べうっかり口移しで薬湯を飲ませたために、夫に襲われた身としてはおいそれと同じ事をする気になれない。
「キャロル。」
ぎろり、と睨まれてキャロルは溜息をつく。
「・・・わかったわ。でも朝っぱらから襲わないでね。」
「ふん。夫が妻を抱いて何が悪い。」
「・・・もうっ。」
それでもキャロルは薬湯を口に含み、一口ずつ口移した。
杯がすっかり空になる頃には、メンフィスの強い腕がキャロルの身体に絡みついている。
「・・・襲わない約束よ・・。」
「・・知らぬな。そんなものは。」
深くなっていく口づけの合間に、二人はそんな会話を交わした――――。
「――――暑い。水浴びに参る。」
寝台で物憂げに身を起こし、メンフィスは未だ荒い息の収まらぬ妃に告げる。
「み、水浴びって、そんなことしても大丈夫なの?」
「なにをいう。そなたが介助いたすに決まっておろう。わたしは病人だぞ。」
メンフィスはとても病人には見えぬ足取りで立ち上がると、さっさと湯殿に向かってしまった。
「早く来ぬか。」
途中でくるり、と振り向き、キャロルに鋭い一瞥を送ることを忘れない。
「・・もうっ、待ってったらっ!」
キャロルは寝台に身を起こすとあられもない姿の自分を見降ろし、ばつの悪い顔をしながら侍女を呼んだ。
手早く衣装を着付けてもらったキャロルが大急ぎで湯殿に向かうと、くだんの主が気持ち良さげに、湯殿に張られた清水に身を沈めている。
夜とは違い、昼の燦々たる光が湯殿の水を煌めかせている。
溢れる光の中、太陽神の如き美貌の王がしなやかな手足を悠々と伸ばして水中にくつろぐさまは、さながら神話の一場面のように美しかった。
傍に控える侍女たちから、ほうっ、と溜息が漏れる。
キャロルも素直に、なんてきれいなのだろう、と思った。
だが惜しむらくは彼女にその美を堪能する暇は与えられていない。
当の王が鋭い黒曜石の瞳に妃の姿を捕らえると、側へ来い、と命じずにはいないのだ。
――――かくて。
神話の場面には、太陽神の王の傍らに金色の女神の娘が加わることとなる。
「―――そなた、まことにミノアに参るつもりか・・。」
メンフィスと一緒の湯殿の清水に身を沈め、その身体を麻布で清めていたキャロルの手がふっと止まった。
「・・・メンフィス。」
揺らめく蒼い瞳が困惑する思いを湛えて、メンフィスに向けられる。
「これほど我が傍にあって、これほど我が愛を受け、そなたはわたしから離れられるのか。
―――――わたしには、出来ぬ。」
力強い腕がキャロルの身体を絡め取り、黒曜石の瞳がキャロルを射抜いた。
「そなたなしでは、たとえ一時でも生きるのがつらい。そなたの居ない一日は耐えきれぬほど寂寞として長い。そして、そなたの居らぬ夜は・・・煉獄の牢に繋がれた心地ぞ。」
キャロルはいたたまれない気持ちになって、メンフィスの唇にそっと口づけた。
「・・・すぐ帰って来るわ。ほんとよっ。ごめんなさい。ごめんなさい。メンフィス・・・。」
「なんと愛しく、憎い奴。これほど言っても我が傍を離れるか。」
メンフィスは細い身体をきつくきつく腕の中で抱き締めた。
「なればその身で、このわたしを癒せ。わたしは病人ぞ。ミノアの王を見舞う前に、このエジプト王を、そなたの夫を癒せ。」
――――そして。
キャロルの昼夜を分かたぬファラオへの献身はミノア出発直前まで続くのである・・・。
蒼穹の空のもと、キャロルを迎えに来たミノア船団がナイル河岸に係留された。
見送る人々の声が木霊となって空に吸い込まれていく。
居並ぶ臣下たち。
その中に。
キャロルは侍医の姿を見つけた。
「ネゼク、メンフィスはもう治ったのよね?」
キャロルが確認する。
「〜〜〜〜。・・・全快にござりまする・・。」
「そう、よかった。留守中、メンフィスを頼みます。では、行ってくるわね。」
ふわり、と安堵の笑顔を見せる王妃に、王命とはいえなんと純真な方を騙してしまったのか、とネゼクの胸は痛んだ。
かくなる上は我が生涯の忠誠を捧げてお仕えせん、と律儀な侍医は心に誓う。
キャロルは蒼い眼差しをおそるおそる渋面の王に向けた。
「メンフィス。行ってくるわね。大丈夫。すぐ帰ってくるわ。」
苦虫を噛みつぶしたような顔の王に、キャロルはそっと腕を回す。
「・・・その言葉、違えるな。違えれば、鬼神を駆って迎えに行く!」
メンフィスはキャロルをきつく抱き締めると、荒れ狂う激情を瞳に込めて、愛しい妃を今まさに連れ去ろうとするかの国の将軍を睨み据えた。
「ユクタス将軍!貴国の望み通り、我が妃を行かせる!くれぐれも妃の身の安全を保証せよ!」
――――保証しても殺されそうだ。
やれやれ、この王から王妃を引き離すのはなんと命懸けであることよ・・・。
百戦錬磨の古強者が戦かずにはおれないその視線。
ユクタス将軍は胸の裡で一人ごちると、射殺さんばかりの視線を彼に投げるエジプト王に最敬礼をとった。
「はっ。このユクタス、命に代えましても姫君の身の安全を保証致しまするっ!」
恭しく傅く彼の手を、小さな白い手がそっと取った。
「では出発しましょう。ユクタス将軍。」
エジプトの誇る神の娘が優しく微笑んでいる。
ナイルの女神より生まれし黄金の娘。
エジプト王が熱愛する、エジプトの王妃。
その優しさと叡智で何度も王と国を救ったという――――。
今度は、その力で我がミノア王をお救いいただくのだ・・・!
なんと、なんと、貴重なる姫よ・・・。
ユクタス将軍は今更ながら、ナイルの姫をミノアに連れ帰れる幸運に思いを馳せ、王の視線に辛くも耐えた。
――――いっぱいに張った帆にナイルの風を受け、ミノアの船は離岸した。
愛しい娘を乗せて、腹立たしいほど足早に遠ざかる船をメンフィスは忌々しく見送る。
遠くない未来――――。
己の言葉通り、いつまで待っても帰らぬ妃を鬼神の如く奪い返しに行くはめになるとは、
彼はまだ知らない・・・。
Fin
