愛の奥宮殿へ
『ある朝の光景』
Presented by 美月さま
「もうっっメンフィスったら、動かないでってば!!すこしはじっとしていてくれないと、いつまでたっても支度が終わらないわよう!!」
「ふむ・・・ではこれでよいか?」
「っっっっ!!だから!!そうじゃなくって!!」
「わたしは動いてはおらぬぞ。なにが不服なのだ?」
「それはそうだけど!でもこれじゃあ、わたしも動けないじゃないの!!」
「ではどうすればよいのだ?」
「だから!さっきから言ってるじゃないの!普通に立っていてくれればそれでいいんだってばーーーー!」
うららかな朝の日差しに輝くエジプト王宮。
高貴の方々の住まいであるところの、奥の宮殿にいかにも場違いな嬌声が・・・いや悲鳴が・・・・・怒声が・・・・・響き渡る。
「あのう・・・メンフィスさま・・・・」
奥宮の最深部にある王の居室。
大きく翼を広げたホルスの紋章が打ち出された、両開きの扉の向こうを困惑した面持ちでうかがっていた女官長のナフテラが意を決したように扉に近づくと、それでも遠慮がちにおずおずと声をかけた。
「謁見の間にて、貴族大臣みなうちそろい王のおいでをお待ちしております。ビブロスよりの御使者もすでに御到着され、しばらく前より控えの間にて王の謁見をお待ちでございます。どうぞお急ぎくださいませ・・・・・・」
「わかっておるわ、すぐに参る。キャロル早くいたせ、急がぬか。」
「・・・そう思うのならっ、すこしは協力してくれたらいいでしょうっっ!」
「協力??協力ならば、ちゃんとしておるではないか。なにが問題なのだ??」
「もうぅっっ!!どこが協力しているのよ!!あなたが邪魔しなかったら、支度だってとっくにすんでるはずなのにっ!」
「動かなければよいのであろう?わたしは先刻からずっと、こうしてここに立っておるぞ。」
「メンフィスってば急いでるんでしょう??さっきからずっと皆を待たせてるんだから?!」
「無論だ。」
「それならっ、とにかくこの腕を離してちょうだい!!いくらあなたがじっとしてくれてても、わたしまで身動きとれなかったら、結局支度は進まないんだからぁっ!!」
豪華な調度品で飾られた、広々としたメンフィスの部屋の居間。
傍らに置かれた小机のほうへ必死で手を差し伸べながら、キャロルはこの日何度目かの叫び声をあげた。
その細腰には、メンフィスの褐色に日焼けした逞しい腕がしっかりと絡みついている。
メンフィスに後ろからしっかりと抱きしめられ・・・・いや、羽交い締めにされたキャロルは、なんとか自由の身になろうと、両手でメンフィスの腕を掴み、力いっぱいおしやるが、当然メンフィスはそんなことではびくともしない。
キャロルは諦めたように吐息をつくと、絡みつく腕を解き放つことは断念して、メンフィスの腕を支点に、前方の小机の方へ倒れるように身体を伸ばし、上にあるものを掴み取ろうと懸命に細い腕を伸ばした。
小机の上に置かれているのは黄金に輝く一対の腕輪。
繊細で華麗なキャロルの腕にあるそれとはちがい、手首のあたりをすっかり蓋うほど幅広の腕輪は、太陽の光を受けてずっしりとした輝きをあたりに放っている。
ぎりぎりまで伸ばしたキャロルの指先が腕輪のふちにかかり、ようやくキャロルはそれを掴み取ると、目の前にあったメンフィスの腕をぐいと掴み上げ、少々手荒な動作で黄金の腕輪によく鍛えられたしなやかな手首を押し込んだ。
「あのう・・・キャロルさま、よろしければわたくしどもがお手伝いをいたしますが・・・・」
扉の外からまたしても侍女達の遠慮がちな声が聞こえる。
「いいえ、大丈夫よ。あと腕輪ひとつ嵌めるだけだから、すぐに行くわ!!」
扉ごしに女官長に向かってそう叫ぶと、キャロルは再び小机にむけて腕を伸ばした。
「すぐよ!すぐ行くから、もう少しだけ待っててもらってちょうだい!」
「は、はい・・・かしこまりました・・・・」
あとは腕輪を嵌めるだけ・・・・・
そう言いだしてから、すでに四半時(約30分)は経過している。
確か先ほど様子を伺ったときも、その前に声をかけたときにも、同じ台詞を聞いたように思うのだが・・・・・・
思わず喉元まで出かかった言葉をぐっと飲みこんで、ナフテラはじめ侍女達は神妙な顔で頭を下げた。
そもそもは侍女達の手で身支度を済ませ、朝の謁見に向かうメンフィスをキャロルが呼び止めたのが、騒ぎの発端だった。
メンフィスの腕にある輪飾りの留め金がきちんと留まっていないのを目ざとく見つけたキャロルが、にわか侍女をかってでたのである。
とはいえ、たかが腕輪を嵌めるだけのこと、普通ならばどれほどゆっくり手をうごかしたとて、5分もあれば支度は完了するはずだった。
・・・・・・世話をされる人間が、邪魔をしさえしなければ・・・・・・
「これでよしっと!あともう片方を嵌めれば完成よ・・・・・・・・っっっきゃぁぁっ!!」
キャロルが残る腕輪を手にとろうと、さらに大きく身を乗り出した拍子に、腕が小机にぶつかり、派手な音を立てて机が床に転がった。
「キャロル、大丈夫か?」
勢いあまって、机と一緒に転びそうになったキャロルをメンフィスがすかさず引き戻し、腕の中に支えると、あきれたように白い顔を覗き込んだ。
「気をつけよ、ただでさえそなたはそそっかしいのに・・・まったく片時も目が離せぬな。」
「だ、大丈夫っ、ちょっとバランスを崩しただけよっ・・・・・それよりメンフィス、腕を貸してちょうだい、これを嵌めてしまうから!!」
倒れ掛かりながらもかろうじて掴み取っていたもう片方の腕輪が、明るい日差しを浴びてキャロルの手の中で燦然とした光を放つ。
「ほう、あの状況でよく落とさずに取れたものだな。」
まるで他人ごとのような口調に、キャロルは思わずキッとメンフィスを睨みつけた。
きつい眼差しで自分を見上げる妃を、メンフィスは面白がるような表情で眺めている。
「もうっ!いいから早く腕をだしてちょうだい!!」
「こうか?」
メンフィスがすっと腕を上げたが、いつのまにやらキャロルの身体はメンフィスの腕の中で反転してしまっている。
お互いに向かい合う形で、メンフィスの胸の中にすっぽりと抱かれた格好だ。身体を捻ろうと、じたばたともがくキャロルをメンフィスがしっかりと押さえつけた。
「どうしたキャロル、なにをぐずぐずしておるのだ?早く支度をいたせ。急ぐのだぞ。」
きつく抱きしめられたまま耳元でそう囁かれて、キャロルは思わずびくりと身を震わせた。
熱い吐息が耳朶をかすめ、白く滑らかな首筋をなぞる。
「メ、メンフィス・・・だめっ・・・・・放してっ!」
「わたしに動くなと申したのはそなたであろう?」
「そ、それは、こういう格好でじゃなくてっ・・・・だいいち、今だってあなたは少しもじっとなんてしていないじゃないのっ・・・・」
「腕はここにある。動かしてもおらぬ。そなたの好きにすればよい。」
「だからっあなたの腕の下にわたしの腕があるんだってばっ!!あなたの腕が自由でも、わたしの腕が動かなかったら意味がないじゃないっ!!」
キャロルの抗議を無視して、メンフィスの腕にひときわ強い力がこめられた。
さらに文句を言い募ろうと開きかけた唇を、そのまま強引に塞いでしまう。
「ーーーーーーっっ!!・・・・・・・・・・・・ねえメンフィス放してってばっ・・・・・!このままの状態で腕輪なんてつけられるはずないじゃないのーーーーっっっ!」
扉の前に控える侍女たちの耳に家具の倒れる音と、少女の怒ったような悲鳴がかすかに聞こえた。
おろおろと自分をみつめる侍女たちを制して、女官長ナフテラは軽くため息をつくと、やわらかな皺の刻まれた顔に困ったような、それでいてどこか嬉しそうな笑みを浮かべた。
静かにその場を下がると、離れて控えていた護衛の兵士に、謁見の間にいる宰相イムホテップへの伝言を指示する。
「イムホテップさまに、お支度に手間取っておりますので、謁見の開始をもう少し遅らせてくださいとお願いして来ておくれ。そう・・・・・あと四半時ほどね・・・・・・・」
おしまい
